「信じる」っていうこと

「信じる」っていうことは、「知っている」っていうこと
「そうあってほしい、こうあるべきだ、って願って思い込もうとしていること」とは全く違う。
それが「当たり前のこと」みたいに、ただ「わかっている、知っている」みたいな感じで、「確信している」っていうこと。
科学的に根拠があるとか証明できるとかそういった次元の話じゃなくって。


そこには疑う余地なんてほんのちょっともなく、
「信じられる、信じられない」なんて葛藤も存在しなければ、揺らぐこともない。
だってただ「そうだ、って知っている」から。


「信じてる」の「信じてた」の、「信じてたのに」なんて
揺らいだり、崩れたりするのは、
「信じてる」「信じてた」んじゃなくって、
そうあってほしい、そうあるべきだから、って
願っていただけ。


「信じたいから信じる」もなくって、
ほんとうはただ、「そうあってほしいから、そうあってほしいってひたすら願い続ける」、思い込もうとする、思い込む、それだけのこと。
それを自分でわかっていないだけのこと。


それが良いとか悪いとか、そういう話でもなくって、
自分でそれがわかっていれば違う。
誰かとか何かに期待すること、
それが叶えられることが当たり前だと、そうあるべきだって思い込むこと、
それがなければ、余計に傷つくこともなく、


誰かなり、何かなり、
「信じてる」「信じてない」、「信じられる」「信じられない」じゃなくって、
自分はただ「そうあってほしい、と強く願っている」んだって、
それだけでいいんだと思う。


本当に信じられるときは、「信じる」「信じてる」の考えたりすることもなく、「知っている」「わかっている」はずだから。



これ、ピンとくるひとってどれくらいいるんだろう。
何パーセントくらい。
どうでもいいか。(笑)

リセット

今年もあとわずか。


今年あった嬉しかったこと、良かったこと、できたことを思いつくだけ小さなこともありったけ書き出してみる。


今年自分が学んだこと、気づいたこと、変えたこと、
そしてこれからの課題、
反省点、
取り組むべきこと、その姿勢、
自分が変えていきたいこと、やっていきたいこと、
思いつくまま書き留める。


過去5年、
特にここ2年がめちゃくちゃしんどかった。
限界を超えた自我消耗。
ようやく自分を取り戻している。
自分を甘やかすのではなく、「大切にする」ということの本当の意味。
それは、誰にとっても、自分自身にしかできないこと。
そしてそれは自分自身への責任。


自分自身をリセットする。
自分の新OSインストール。
再起動。
新しい年を新しい気持ちで迎えたい。


過去5年分。
いや、それまでの人生分もすべて含めて。
巻き返す。

どこまでの本気?

「本気」だとか「真剣」だとか、って、
誰に対する気持ち、何に対する気持ち、
言ってる本人は100%本気のつもりで、そう思っていて、信じていても、


それを「求める」「望む」「願う」気持ちが100%だったり、すごく強いのと、
「本気」「真剣」は別の次元の話。


「本気」「真剣」って自分が向き合う姿勢で、
求めたり、願ったりする気持ちの強さだけではなかったりする。


どこまでの本気?
どこまでの情熱?


それが欲しいのは、
心地よいから、楽しいから、最高の気持ちになれるから?
だとしたら、


どれだけ、どこまで望んでいるの?


それが、
心地よい限り、楽しい限り、都合の良い、便利な限り?
そうでなくなったら、そうでないなら、欲しくない?


何度かの失敗や、すぐに思い通りにうまくいかなければ、
求める気持ちや、信じる気持ちもすぐに揺らいじゃったり、くじけたり、
疑ったり、迷ったり、要らなくなったりしちゃう程度のもの?


それとも、
「何が何でも」?
どんなに大変でも、何度の失敗や挫折や、面倒なこととか、しんどいときとか、全部乗り越えてでも?
求める気持ちのほうがずっと大きい?


どれだけの情熱?
尽きない情熱?


「条件付き」の求める気持ち?
それとも
純粋に魂の求めるもの?