本当は誰のため?

あなたのために、誰彼のために、


自分が認められたい、好かれたい、よく思われたい、すごいと思われたい、感謝されたい、求められたい、必要とされたい、


と何かをするのと、


相手に心から
喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、満足してもらいたい、役に立ちたい、心地良い時間を過ごしてほしい、幸せを願う、


と何かをすることは根本的に「目的」が全く違う。


相手の気持ちを理解しようとせずに、本当は「自分」のためにやっていることを、「あなたのためにこれだけやっている」と相手の望んでもいないことを、自分が愛されたい、必要とされたい、認められたい、感謝されたいためにどれだけやっても、
それはあくまで「自分本位」。
「独りよがり」の「自分の気持ちの押し付け」であって、それを理解されない、感謝されない、と腹を立てるのも悲しむのも筋違い。


また、相手の望んでいることであっても、それによって気持ちなり行為なりの見返りを求めるようでは、目的は「見返り」であって、相手に喜んでもらうことではない。


純粋に相手のためを思ってのことならば、相手が喜んだり、満足した時点で、笑顔だけですべては完結する。自分は十分満足なはず。
自分がそのことを行ったことに対しての見返りの期待、相手に自分をこう思ってほしい、自分にもこうしてほしい、が伴わなければ完結しないのであれば、それは結局は自分のために行ったことだから、ということ。


「相手のため」、ということは、相手本位。
相手が何を求めているのか、願っているのか、
何をどう感じているのか、
相手の気持ちを理解しようとすることから始まる。


どこから気持ちが始まるのか。


自分が相手に求める気持ちの見返りからなのか、
相手を喜んでもらいたい、相手のための気持ちなのか、


多くの場合、
結局のところは「自分のため」の人は、焦点がずれてしまっているので、
相手の気持ちや、相手の望むものが見えていない。


相手を見るときにしても、
こうであってほしい、こうであってほしくない、という自分の期待、願い、要求を投影していて「ありのままの相手の姿」を見ていない、見えていないことが多い。


「こうであってほしい」相手を条件付きで求めているのか、
「ありのままの」相手を受け入れているのか、愛しているのか、


それも同じようなこと。